昨日の続き
以下、シンプルにするために多少乱暴な議論になっていることはご容赦を。詳細は宮台真司、北田暁大、東浩紀あたりの著作を参照のこと。
代替可能性とは、社会学でよく出てくる言葉で、要は
「他のモノと取り替えがきく」
ということ。
仕事でいえば、ベルトコンベアでの分業は(ある程度の熟練度が必要なものの)「代替可能」となる。
コンビニの店員も、吉野家やデニーズの店員も、代替可能。
コールセンターの人員は英語であればインド、日本語であれば大連とかの人と代替可能。
マニュアル化できる仕事は、たいがい代替可能なのだ。
資本主義はこの代替可能性を追求していくことにより、効率化が進み、発展してきた。誰がやっても同じような結果が出せるのであれば、あとは「低熟練だけど低賃金」な人を大量投入すれば「安価」で「そこそこ便利」と評判になり、ごっそり市場を奪うことができる。
その結果として「効率の悪い」中小小売店はセブンイレブンに駆逐され、近所でおじちゃんがやっていた食堂は日高屋や松屋になり、おばちゃんが取り仕切っていた衣料品店はユニクロに取って代わられた。中小薬屋は軒並み廃業し、マツキヨやコクミンドラッグになった。
見渡してみればどこも同じような店が並び、日本全国どこに行っても同じモノが買え、同じ料理が食べられるようになった。
もちろんサラリーマンでも同じ。営業マニュアル片手にがんばる営業マンも、作業マニュアルを見ながら経理事務をこなす派遣社員も「代替可能」
そこで働く人は、ふと
「この仕事って自分じゃなくてもつとまるじゃん」
と気づき、高いモチベーションを維持することが難しくなる。
#だって、「自分じゃなくてもいいんだ」と思えてしまったら、がんばる意欲は確実にそがれてしまう。
住居も郊外の一戸建てや都心のマンション。間取りも似通っていて、学校に通う同級生も、同じような親の年収で輪切りにされている。
そして、そんな風に周りの環境が均一化してくれば、そこで育つ人々の思考回路もどんどん似通ってきてもおかしくない。
#だって人は環境に応じて自分を最適化するのだから。
結果ファッションも、さらに考え方までも同じようになる。そうすると、仲の良いカップルであっても
「彼は私とつきあっているけれど、別に彼にとってみれば(外見も中身もそれほど変わらない)Aさんでも一緒のことでは?」
と思えるようになってしまう。
もちろん、細かな差異はあるけれど、
「キミとボクとは住んだ環境が全く違うし、考え方も相容れない」
なんてことが、どんどんと起きづらくなり、全ての正規分布は中心化してしまう。
そんな街で、そんな同質的な人たちに囲まれて生活していくことは、「周り全てが代替可能」「本人ですら代替可能」という理解を生み、社会にもまれながら自分の足で立ち、生き抜く気力を奪っていく。
実を言うと
「オレはオレだ」
「私は私よ」
という言葉に根拠はない。
ただ、
「自分は他人とは違う」=代替不可能
ということを「信じられる」環境は、街や郊外、学校や住宅地の景色が均一化していくにつれ、どんどん失われてしまっているのではないか。
昨日の話に戻ると、そのような今は失われつつある「代替不可能な街」こそが、「街的」なんだと江弘毅は指摘している。
”あの”おっさんのやっている一杯居酒屋
日影さんの経営するブティック
建築家安藤さんが作った公園
あの横町を曲がったところにある、80過ぎたおばあちゃんが店番をするたばこ屋
ホルモン焼きから高級料亭、ビストロから中華料理店。どこも”あの”ご主人・オーナーがおいしい料理を作ってくれる
風俗街や汚い路地裏といった「暗所」も残っている
そんな「顔の見える」「よそ者には少し敷居が高い」「値段の高低や雰囲気などでバラエティに富んだ店が軒を並べる」街が「街的」であり、「代替不可能」なのだ。
そんな「代替不可能」な街で「代替不可能」な人たちと交流していけば、自然と自分も「代替不可能」であると確信するのではないか。
「代替可能性」が行き過ぎてしまったために起きたこの状況を改善するため、「街的」でなくなった街を「街的」に戻していく作業。ある程度効率性を捨て、合理性は低いけれど多様な環境を許容すること。そんなことが必要なんじゃないかと、「街的」なものが多少は残っているNZで考えている。
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